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ひとりにひとつ水晶が必要。自分らしさと出会うために。
| 水晶ポイントはパワーアップやヒーリングのための強力なツール(道具)。多少は高価であっても良い製品を選ぶなら、金銭には変えがたい価値を発揮してくれます。 |  |
◆「ひとりにひとつ水晶が必要。自分らしさと出会うために」そこから本当のヒーリングが始まります。自分らしさと出会う、それは、本当の自分を発見する、自分という存在の根っこを見つける、日常的な自我を超えたもっと大きな自分を知る、といいかえてもいいし、自分という存在に対して大きな安堵の吐息をつく、まずは自分で自分を全面的に受けいれる、といっても同じことです。
◆基本ができていないとダンスはうまく踊れない。土台が整っていないと家はすぐにひずみ、不具合が生じる。ヒーリングの問題も同じことで、いかに強力パワーのパワーストーンを手にしても、心の土台が整っていないとパワーアップは的外れであったり、ひずみを強化するものになってしまいます。それで、「ひとりにひとつ水晶が必要。自分らしさと出会うために」となる次第。
◆水晶クラスターはクリスタル・ヒーリングの基礎であり、浄化も癒しもパワーアップも幸運獲得も、すべては水晶クラスターを静かに眺めて、それを美しいと思う、その気持ちにひたることから始まります。やがてはそれをすこぶるに愛しく感じられるときがくる。そこでは意識は澄んでいて、おのずから華やいでくる。いい気持ちが身体に広がる。そこに自分がいて、そのことに気付くことができるなら、「ひとりにひとつ水晶が必要。自分らしさと出会うために」の意味を如実に理解できます。
◆難しくいえば、日常的意識から幾分かデリーケートな相へと意識が変容する、この変性意識状態でのみ、癒しはなされ、パワーアップは確実なものとなり、この状況のなかで、心はシンクロニシティ(奇妙な偶然の一致)を引きよせて願望は実現していくのです。
◆水晶のクラスター(群晶)を眺める。それがどのような形のものであれ、クラスターのひとつひとつには、その水晶ならではの物語が埋もれています。まるで、ひとりひとりの人に古事記に匹敵する物語があるように。水晶クラスターがあるなら、すぐにはそうと気付けないかもしれない。けれど、あなたの心はすぐさまそれと会話して、あなた自身を清め、あなたの日々の暮らしがより好ましい方向へと展開していうよう力添えしてくれます。
◆ヒーリング(癒し)には三つの段階がある。今回はその概要を紹介します。水晶を眺めて、その美しさや愛しさ、パワーの波動を楽しむ、そうした理解の仕方に3つの段階があるのです。あなた自身がどの段階のヒーリングを期待するのか決めておかないと、ヒーリングはたいした実を結ばず、欲求不満を残しておわることになってしまいます。
◆簡単にいえば、第一は、居酒屋で友だちと憂さ晴らしするような段階。リラクセーションとストレスの発散。テレビなどでやっている〈癒し〉はたいがいこの範疇に入るもので、香を焚いたり、ヒーリング・ミュージックを聞いたり、ちょっとしたヨーガやストレッチング、マッサージ程度の癒し。
◆クリスタル・ヒーリングでいうなら、水晶たちを眺めることで心をなごませる。特定の宝石たちの色彩を浴びる、またはそれで気持ちを染めるつもりになって、心を元気づける、そういう段階。手軽に気分をリフレッシュメントできるという特徴があります。カラー・ヒーリング用に開発されたハイパワー・アクセサリーでパワーアップする。または水晶クラスターや鉱物原石たちに話しかける。そうするだけで、あまたあるヒーリング方法の、たぶん10倍以上の効力が得られます。
◆第二は心の葛藤を癒したり、願望実現や目標の達成。要は自分なりに人生の勝組として生き残るためにヒーリングを必要とする段階。病気を治したり、身体の不調を癒すのもこの段階。書店へいくと、目が眩んでしまうほどたくさんの背表紙が並ぶ、あれこれの健康法、ひところのニューエイジの系統につながるマインド・テクニックなどがこの範疇。当社では、ハイパワー・アクセサリーを使ったカラー・ヒーリングをお勧めしています。
◆心身医学の発達にともなって、病気と心との相互関係がとりざたされる機会が増えています。だからといって、心の葛藤が病気のすべての原因だ、などというのはゆき過ぎかもしれません。どうやら人のなかには生まれついて病気になりやすい人がいるようだし、物理的な生活環境が病気の原因となる場合もあります。それでも、病気と心の働きには深い関係がありそうです。
◆自分ではそうと気づかないまま、自分を責めることで身体を病む人たちがいます。まるで病気が自己処罰であるかのように。「誰にでも過ちはあり、失敗は人生に付きもの。悔恨は、まあ、しかたがないってことさ」といったって、彼らは聞く耳をもたないことでしょう。
◆あるいは自分と戦いつづけることで病気になる人もいるといえそうです。彼らにとって世の中には不愉快なことがいっぱいあって、そこから眼をそらせなくなってしまうのです。世の不正や心ない人々の愚行を怒ることは大事であるけれど、それ以上に大切なことがあるというのに。このような人たちにとって怒りや不満は病気の苗床となり、やがては病気を芽吹かせます。すると今度は病気になった自分が許せなくて、可能なかぎりの方法を用いて病気と闘わざるをえなくなります。
◆もっと周囲から愛してほしい、注目してほしい、ほめてもらいたい、かまってほしさゆえに病気を選ぶ人たちもいるようです。「私はこんなに弱い、こんなにけなげて、こんなに努力しているのに、なぜ、かまってくれないの」と、彼らは暗黙のうちにいいつのっているよう。諸般の事情により、素直な自分の気持ちを表明できない場合、抑圧された思いは心の葛藤を生み、自己表現として病気を選ぶ場合もあります。
◆嫌な相手と会わなくてはならない、嫌いな仕事に出かけなくてはならない、したくもないことをしなくてはならない、そんなときは頭痛がするし、胃が痛む。耐えかねる思いはおう吐や下痢にのせて棄ててしまいたい。そのような思いが積もりに積もると、ストレスは胃潰瘍を育み、ガンを招くことだってないとはいえません。これらは心の葛藤ゆえの自己表現なのだといえます。
◆医学や民間療法の多くは、病気という現象面のみに囚われてそれに対処しようとするけれど、このような場合、心のひずみ、ねじれ、抑圧に注意を向けないとしたら、ひとつの病気が治っても、その人は次の、ひょっとしたら、もっと治りにくい病気を選ぶかもしれません。
◆心のひずみ、ねじれは躾を学び、教育を受け、おとなになる過程で誰もにでも生じることです。こうしたことの一切ない人間は人間じゃないといってもいいほどに。心のもちようを楽にして、ひずみを癒したり、心の全体をパワーアップするのが第二の段階のヒーリング。水晶たちとともに暮らして、「自分の全体をまずは自分自身で受け入れる」ことから始めみてはいかがでしょう。自分で自分を受け入れることができるなら、周囲の世界も丸ごと受け入れることができるわけで、そうなれば、興味が持てなかったり、嫌いな部分を捨てることができるようになります。 「パワーは向かえばそむく。やまいは戦うほどに悪くなる」というのがここでのキーワードです。
◆第三段階のヒーリング技法は、一般的な健康法やヒーリング関係の本では、まず語られることがありません。東洋の精神性を理解できる欧米人は、たとえ精神世界・オカルト関係者といえども数少ないし、日本では精神世界はうんざりするほどに教条主義的なのが常だから。
◆第三の段階ヒーリングは、自分の生き方が「心のある道」に沿っているのだと実感できるとき、あるいは天地のパワーをまざまざと感じるときに、自ずから開かれてきます。スピリチュアルな世界を歩む「道」が開示され、そこへと向かって歩を進めるといってもいいと思います。いまのままでいい。強欲は強欲なまま、短気は短気なまま、スケベはスケベなまま、その人なりの日常生活をこなしながら、それでも確固とした意図をもって「道」を歩む。そうした生き方が、ヒーリングの最終段階として用意されているのです。
◆ここでは自分が古代から受け継がれてきた「賢者の系譜」めざして歩んでいるという感触によって、自分のみならず、周囲をも浄化できることに気付けます。自分が癒しの道を歩んでいるなら、その行為によって、ごくわずかであっても、周囲の人々や地球自体もまた、癒されるのです。
◆ヒーリングの第三段階、心の全体をまるごと癒す生き方へと注意をむけるなら、病気治しは後回しにしてもいいほど。一般的な願望は色あせて、自分の生死ですらさほど重要ではないことを発見できます。そのくせ病気は治そうと思わずに治り、願望は願わずしてかなう、そういう世界。ここでのキーワードは、ドン・ファン&カスタネダから借りてくるならば「管理された愚かさ」。
◆ともすればスピリチュアルな世界を志向することは、現実的な価値観を放棄すること、我欲を捨てること、清貧に甘んじることと思われがちではあるけれど、あれは古代インドや中国の特殊な環境なればこその論理。老子は給料をもらっていたし、孤高のヨーギたちにはスポンサーと日常生活の世話役がいた。現代という時代にあっては、スピリチュアルな世界を生きることは、それほど難しくないのだと思えてなりません。
◆第三段階のヒーリング、強いて名付けるなら「道を求める」は、恋人がほしい、対人関係をうまく整えたい、よい仕事に恵まれたい、身体の不調を癒したい、などなど、日常生活を向上させるためのヒーリングには必要のないことです。 けれど、たとえば、 ■どうしてもスピリチュアルな世界に興味が向いてしまう ■身体が霊的事象に感応しやすい ■現実的な生活に適応しにくい ■現実的価値観に疑問を感じる ■もしくは突然に古代のことが甦ってくる ような場合には大きな光明となります。こうした人びとにとって、第二段階のヒーリングは第三段階への移行となる場合があるのですが、両者を混同すると、パワーに魅せられ、さらにはそれに溺れてしまって、ジャンキーのような日々を送ることになってしまいます。
◆第三段階のヒーリングへと気持ちを向けると、不思議な能力を持つと自称する人々と出会ったり、夢に古代の霊があらわれたり、自分には予知能力があるのではないかと疑うほど奇妙な出来事が起きたり、ときには身体のなかでパワーが勝手に騒いだりし始めます。こうした出来事を正しく解釈して、自分の体験として、目的にかなう方向へと根付かせていくためには、精神世界における基本的な知識が不可欠。知識がないと愚劣な人間を偉人と思い誤ったり、夢の告知をそれが象徴であることに気付けず、額面通りに受け取ってしまったり、そこらの低級霊を神霊と見誤ったり、ちょっとしたパワーのうずきをチャクラの覚醒と盲信することになります。結果として程度の低いレベルに自らを縛ってしまうのです。興味のある方は中国禅、老子・荘子、インドのタントリズム、チベット密教、ディオニュソス信仰あたりが参考になります。
◆古代の賢者のひとりを選び、その人について徹底的に学ぶなら、「道」はいっそう確実で揺るぎなく、さらには限りなく美しいものになります。
◆水晶クラスターのもっともすぐれた特質は、うすぼんやりと眺めているだけで、心はおのずと調律され、意識のデリケートな「相」が明らかになることにあります。それまでの自分が、世界はかくあると信じていた世界観は、あなた自身がそう思っていたから、そのように見えていた世界なのだということに気づくことができるなら、昨日までとはまったく違った新しい世界、見えているものは同じでも、驚くほどに豊かで調和の取れた世界を眺めることができるのです。そこでなら、古代の人々の言葉がしごく当然のものであることにうなずけるし、水晶クラスターから精霊が立ち現われてくるのを理解できたりします。
◆老子の第一章にはおおむね次のようなことが書いてあります。古文の先生が見たら怒るかもしれないけれど。
いまかりに「道」という。それこそが永遠なるものである。 けれどそれは説明できるものではない。 「道」を「道」と名付けて説明しようものなら「道」ではなくなってしまう。 名付けることができるものに不変のものはないのだから。 この名付けえないものから天地は開かれてきた。 そこから生じた万物は名付ける行為を母として、識別されることで多様性を得た。 それゆえに識別にとらわれない者だけが存在の本質をみる。 とらわれる者は万物がせめぎあう、その結果に翻弄される。 存在の本質と多様性は異なっているようにみえるが、じつのところ同じものである。 こうしたおおもとは認識を超えているがゆえに「玄」(不可知)としかいいようがない。「玄」のもっともおくまったところに妙なる門がある。
◆蛇足:その妙なる世界の甘美なことときたら、龍宮城と桃源郷を泊まり歩いているようなもの。しかして惚けてしまえばそれだけのこと。
◆〈ザ・ストーンズ・バザール〉では、セミナーを開催する、個人的相談を受ける、ということをしていません。それでもヒーリングについてより深く考えたい人々や、ときには「道」に迷う人々の灯台であれと願っています。
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