玄太の夢幻日誌
タオス・プエブロ
 アメリカ南西部のプエブロ・インディアンの居留地のひとつ、タオス・プエブロ。中央に立つ柱は天と地を結ぶ宇宙樹。祭りの日には頂きに生け贄がつり下げられる。同様の思想はベーリング海をまたいで諏訪の御柱にもみられる。北欧神話から派生してきたクリスマス・ツリーやエジプトのオベリスクも同じ意味を宿している。イメージのなかで御柱を梯子にしてぼくらは異界へと旅立つ。
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2006年9月24日 編集
仙人に要請されて丹薬をつくる
山の家での午後のひと時、ぼくは勝手口の階段に座って足の爪を切っていた。
そこに忽然と、まったく久し振りにトカゲにのった仙人が現われた。しかも彼はぼくの前でトカゲを止めて、しっかとぼくを見上げた。

その小さくて間抜けにみえる姿といったら、まるで観音様になって孫悟空を見おろしているようなものだった。

「しょうもうする」と彼は以外に大きな声でいった。
「えっ、なにを消耗するんですか」
「ちがう、ちがう、しょもうするといったんじゃ」
「所望するって、何をご所望なんでしょう?」
「ほれっ、おまえさんが持っている辰砂をじゃよ」
 
仙人は白髭をはやしている。よくみれば頭は禿げている。白いバスロープの裾を長くしたような衣服を着て、腰を紐でしばっている。ハエトリグモに話しかけられているようなもので怖くはない。ぼくにはなりゆきをおもしろがる余裕があった。

「小瓶にはいっている顆粒状のやつでしょうか? それとも結晶?」
「小瓶にはいっているやつじゃよ」
「所望するとはおっしゃいますが、ぼくは昔でいえば方師に丹薬を商う商人のようなもので、もちろん商の生まれじゃありませんがね、みんな商品なんですよ」とまずはいってみる。

「わかっておるわい、だから所望するといいにくかったんじゃ。わしの方術をもってすれば黙って借用することは造作もない、おまえならそこらの狐をオナゴに変えてつかわせば、すぐさまそれを手放すことも承知しておる。だがな、わしらのような仙人ともなると、そういう卑しい真似はできんのだ。だからこうして所望するというておる」
 
ぼくは態度を改めた。とんでもない天罰がくだるかもしれないと急に怖くなった。
 慌てて家の中に戻って、とって返す暇もあればこそ、小瓶入りの辰砂を彼の前においた。

「どうぞご自由にお使いください」
 
彼はニッと笑った。「ありがたいことじゃ。ついでに調合してもらえまいか。そのまましゃぶるわけにもいかん」
 
彼は以外と簡単な調合法を示唆した。山の家にはさいわい鶏冠石も雲母もあった。2、3の薬草の代用品は庭にはえていた。ビーカー・フラスコ・乳鉢・デジタル秤と、確かにここには古代の煉丹術師なみの道具がそろっている。
 
そうしてできた仙薬を、ブーゲンビリアの花に集うハチドリのようにして仙人はスプーンの端から呑んだ。

「おうおう、これじゃこれじゃ、これぞまさしく丹薬、生き返る思いじゃ、礼をいうぞ」 

彼は残りを米粒ほどにも小さな瓢箪に入れるよう要請した。その瓢箪ときたら底無しの按配でスポイトを使って注いでも注いでもあふれはしなかった。それでもぼくは自分用にビーカーの底に数滴を残しておいた。
 
お礼に如意宝珠とかそういうものをもらえるかと思ったが、そうでもなくて、仙人はみえないほどに小さな足でトカゲの腹を蹴ると、物干し台のコンクリートの土台の裏へと去っていった。
 
彼がいなくなった直後にショップから電話がかかってきた。通話もそぞろに電話を切る。ぼくだってひと嘗めしなくては気が済まないと机の上をみた。かえすがえすも惜しいことに、丹薬の残りはビーカーごと消えていた。調合法はすっかりと脳から消去されていて思いだせなかった。
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2006年9月21日 編集
黄昏はすみやかに夜に呑まれる
山の家に1、2泊しての帰りがけ、2時間ばかりかけてアパートに戻るだけのことだが、数日間親しんだホテルの部屋をあとにするのと同じ気分になる。
 
こんなとき旅先では新たに訪ねる町への期待よりも親しいものを後にする喪失感のほうが大きい。ひとり旅の旅人は町を移るごとに死んでは再生する。この感性は相当しっこく刷りこまれているらしくて、何十年たっても消えていかない。
 
そうしてぼくはバックパッカーのごとき気持ちでバス停に立つ。実際には大きな荷物を持っていないし、来るのは見慣れたバスであることを知っている。それでも気分はマドラスからカンニャクマリに向かう途中のどこかの道路端であるかのようなつもりでいる。
 
その日もいつもと同じようにT字の道路を曲がってバスは姿をみせた。車内はハイキング帰りの客で8割方席が埋まっていた。どうしたことか彼らの全員が眠りこけていた。
 
まずいバスに乗り合わせたな、と思う。いつもであればハイキング客は蜂の巣に顔を突っこんだごときに賑わしい。彼らの大部分はぼくと同年代でショップにきてくれる客や、近所のひとたちと変わらない。なのにそうやって集っている姿をみると共感する要素は、ゼロポイント・フィールドに残る素粒子ほどにもなくて、いつものぼくはひたすら嫌悪感をつのらせる。
 
でも今日の乗客は違う。ひとりふたりをよくよく見れば息をしているのがわかる。けれど全員が死人のようだ。おまけにバスは途中のバス停に止まるつもりがないらしい。型通りのアナウンアスを流しては通過していく。
 
黄昏はすみやかに夜に呑まれる。窓の外をドラキュラ城ならかくやと思える灰色の重い霧が流れていく。霧は車内にも流れいって足元を霞ませる。
 
こんなことはありえないはず。ここはダージリンでもなければコロラドの山中でもない。まずいことであるかもしれないと思う。ひそかに九字の印をきる。九字は密教の呪法と思われているが源流は道教にある。呪文を唱え9枡の魔方陣を虚空に描く。縦横斜めとどのように足しても15になる魔方陣はその完全さゆえにあらゆる魔物を調伏する力があった。 

アナウンスに我にかえると、ぼくはバスの終点で乗るはずの私鉄駅のホームのベンチに座っていた。そうか、いっときの夢だったんだと思った。しかしバッグはまるで霧雨のなかを歩いてきたかのようにグッショリと濡れていた。
 
電車に乗ると、各駅停車のはずの列車は闇のなかをどの駅にもとまらずに驀進した。車内にはぼくひとりしかいなくて、こうこうとした明かりは眩しすぎるほどだった。

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2006年9月15日 編集
電車のなかで宇宙人にあった
町へ出かけなければならない用事ができて電車にのった。電車のなかで宇宙人を見かけた。
 
ぼくはル=グウィンの「なつかしく謎めいて」という本を読んでいた。故郷のないぼくにも故郷があるような気分にさせてくれる暖かな本だ。空港で待ちくたびれている間に、時空の異なる宇宙へとテレポーテーションすることを覚えた人たちの奇妙きてれつな話が集められていて、そこではたとえばテディベアは熊と昆虫とトウモロコシのキメラだったりする。
 
1篇を読みおえて目をあげると、正面にきれいな女性が坐っていた。
 
やせていてスマートな人だった。なのにスーパーマーケットのお買得品の西瓜みたいな胸をしていた。幅の広い紺色の綿パンをはいて、胸の大きさが際立つノースリーブのシャツをきていた。シャツはきつく胸を締め付けていて、いまにもボタンがはじけとびそうだった。
 
ぼくの見立てによると太っていなくて乳房の大きな女性はうりざね顔していて唇がぽってりした人に多い。彼女たちの出自はシベリアのツンドラ地帯にある。厚着した女性にとって大きな胸は淘汰に有利に働いた。
 
でも彼女はちがっていた。歳のころは30代なかば。頬骨が高く、顎の輪郭がしっかりとしていて、形の整った唇は薄かった。知的な顔に百戦錬磨の女戦士の風合いがあった。 

頭頂から噴水のように吹きだすオーラは玉虫色に輝いて網棚に届かんばかりだった。それは大粒ダイヤモンドのファイアに似ていた。虹とも炎ともとれる光の筋があちらやこちらでほつれた糸のようにきらめいて、湧きでるごとく流れるごとく、瞬時たりともとどまることなく形を変えている。網棚近くへと吹きあがった光の筋は優美な曲線を描いて滑りおち、耳のあたりで幾百もの五色の閃光花火となって弾けていた。
 
こんなオーラの人間などいようはずがない。せんだってインターネットで購入したばかりのオーラ・カタログを頭のなかでひもとく。うろおぼえなので確かではないが、あの形のオーラは太陽系を遠く離れた〇〇星系の異星人を彷彿とさせる。
 
まずいよ、これはまずい、と思う。こんなオーラを隠さないでいたら、見るべき人が見たらすぐ異星人だとばれてしまう。
 
ここがデリーやサンフランシスコであったなら、「暑いね」の一言ぐらいいえたりして、それからさりげなくオーラのありようを話すこともできるだろう。ついでに自己紹介して自分が出発してきた惑星の名を口にすることもできた。けれど香港や東京ではそんなことしたら酔っ払いか変態と思われる。
 
テレパシーでなんとかならないものかと意を凝らしてメッセージをおくる。そんなぼくに彼女は笑顔寸前の視線をむける始末。
 
違うんだよ、胸の大きさに見とれているわけじゃない。ぼくは胸の大きさよりもキミの顔立ちのほうがはるかに好きだ。オーラの美しさがもっと好きだ。
 
ぼくは念を凝らして顔見知りの精霊をよぶ。彼女にただちにオーラに覆いをして東京人の振りをするように、もっとやつれてゾンビのごとく、あるいは木星の土木工事から帰ったばかりのアンドロイドのように振る舞うようにいってやってくれ、と訴えかける。なのにやっぱり精霊たちと意のままに波長をあわせるのは難しい。
 
電車を降りるとき、彼女は席についたままでいた。虎に乗るチャンディガー(ドゥルガ)の余裕をみせて、自分のサンダルを見るともなしに眺めていた。
 
あの日以来、転生する場所を選べるなら〇〇星系も悪くないと思っている。

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2006年9月01日 編集
キミを探すのに500年かかった
彼女はいつもの彼女ではなかった。眼に野の獣が宿っているようだった。
ぼくはどうしたものかと思案しながらレストランをでて、彼女より一歩遅れて歩いた。彼女の黒髪はそよ風になびき、背筋をのばした後ろ姿は美しかった。長いスカートの奥で左右に揺れるお尻の形が眼に悩ましかった。
彼女はきゅうに足を止めた。身体ごと振り向いてぼくを見据えた。

あなたはだれ? 彼女が言った。
ぼくはぼくだよ。
違う! あなたは今名乗っている名前の人じゃない。
なぜ?
わかるのよ。いま、はっきりわかった。
どうして?
わかったのよ。ついにね。
 
そう、ぼくは彼じゃない。長い間かかって彼に気づかれないように彼になっていったんだ。いまあるぼくはぼくと彼との合作と言ってもいい。身体は彼のものだ。しかしいまでは彼はぼくであり、ぼくは彼でもある。この男はもう生きていたくないと思っていた。オーラは死を迎える色に染まっていた。
 
ああ、なんてこと! 彼女は叫ぶように言った。
私たち、やっと会えたのね。
そうだ。とぼくは言った。キミを探すのに500年かかった。

そんなこというつもりではなかったのに言葉が勝手に口からでた。
彼女はぼくを抱きしめた。往来の真ん中で人目を忘れて、痛いほどにぼくの背中に爪をたてた。ぼろぼろとこぼれる涙がぼくの首筋を濡らした。
 
キミはもう、ぼくのことを忘れたものと思っていた。転生しても記憶を持ち越すのは難しいから仕方がないと思っていた。でもぼくにはキミと会ったときにすぐにわかった。やっと会えたということが。これでもう思い残すことはなにもないって。ぼくらの約束は成就された。つぎにはぼくらは完璧にひとつになれる。どちらが先に死んでもだよ。
夢の町では景色はきゅうに変わる。ぼくたちは森の中にいた。彼女はいつものように傲慢ともとれる笑みを浮かべていた。
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2006年8月17日 編集
オオサンショウウオの霊界旅行
神々の化身であるかのような老夫婦の夢を見た。旅行の途中でぼくはどこかへ向かう飛行機の座席に着いていた。中国やインドの地方都市間を結ぶ類いの飛行機だった。飛行機は空港のゲイトにつながれていて、乗客が乗りこんできていた。そのなかに顔見知りの老夫婦がいた。

「いやいや、これは以外なところでお目にかかりましたな」と老人が言った。
 
老人は小柄で上品で、肌の色艶がよく、なに不自由なく暮らしているかに見える。着ているものを見れば裕福さがわかる。成金趣味ではない。質素で簡略ながらも豊かだ。奥さんはニコニコと笑っていた。彼女は主人が語りおえるまでは決して口をはさまない。そういう生活習慣が身に染みついてしまっている。しかし夫唱婦随というわけではない、あえていうなら老人は奥さんの手の上の駒でしかない。そんな匂いがある。彼女のうちには慈愛の太母がくつろいでいる。
 
ぼくはこの夫婦をよく知っている。どこでどのように暮らしてるのか知っているわけではない。どのような家に住んでいるのか、子供や孫が何人いてどのような職業についているのかを知っているわけではない。それでも彼らをよく知っている。
 
鮭が水の匂いで遡上する河をかぎわけるように、旅人は旅の途上で自分と似た者たちをかぎ分ける臭覚を発達させる。
 
前回どこでどのような状況のもとで彼らに会ったのか、知っているが具体的には思い出せない。

「ご無沙汰しています。お元気でしたか?」ぼくは座席から腰を浮かせて彼らにいう。

「ええ、元気でしたよ、それにしてもこのようなところでお目にかかるとは実に奇遇ですな」老人は答える。
 
飛行機の通路には老人の背後に幾人もの人が並んでいる。
「あとでゆっくりとお話ししましょう」老人の言葉がおわらないうちに目が覚めた。
 
他人の夢の話は退屈だ。彼らは遠い土地の山奥の沼に住む、想像も出来ないほど加齢したオオサンショウウオの精たちのようにおだやかで美しかった。こういう野の精たちもときには昔をなつかしんで旅に出ることがあるのだろう。
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2006年3月15日 編集
大好物の白玉(はくぎょく)を購入して大満足
馬王堆以来、日本に伝来しなかった玉器のことが気になっている。卑弥呼は渡来人だった、大国主・大物主を信仰した国津神系の人たちも縄文後期の渡来人であった可能性がある。なのに日本列島ではなぜ玉器がほとんど発掘されていないのか? 2000年前の中国大陸での玉器の分布を調べるなどという作業はぼくの手にあまる。しかし、気になるとろこではある。そう思って、香港の長沙湾にある漢の時代の墳墓遺跡に再度足を運んだ。 

季鄭屋漢墓は英語では「 LEI CHENG UK HAN TOMB」と書く。日本では中国の地名を日本語読みして済ませているが、実際に中国を旅行するとこの読み方が混乱のもととなる。中国語の発音はままならず、ひとつの土地にひとつの漢字、ふたつの読み方を覚えるのは面倒このうえない。
 
季鄭屋漢墓はレンガ積みで形の整った十字型の墓室を持つ美しい墳墓ではあるが規模は小さい。盗掘されていたのか遺骨は見つかっていない。そして記憶にあったとおり、ここには玉器の出土はない。
 
隣の中国式公園・漢花園の太湖石を撮影して、時間があまったので黄大仙に立ち寄って公園を散歩、ジェード・マーケットでヘキや動物彫刻を捜した。香港美術館に並べられているのと同程度に質の高い白玉(はくぎょく)のヘキを購入して大満足。
 
わずか半年のことなのに、ここでは半分とか3分の1に値切っても平気という提示価格を言わなくなっていることに驚く。ちょっと値切りすぎると彼らは一様に中国での仕入れ価格が高騰している、だからそんな値段ではとても売れないという。
 
夜、知人と夕食。深センや東莞など香港に近い経済特区での雇用状況が日増しにシビアになっているという話を聞く。かつて日本にも田舎の中学新卒者が団体で都会に働きにくる集団就職の時代があった。国際競争のなかで日本の企業は海外に生産拠点を移し、国内産業は空洞化していった。東莞もそのひとつで、ここにはたくさんの日本企業が進出している。
 
類似の状況がいま中国の経済特区でも起きている。労働者が高学歴となり汚い仕事を嫌うようになっている。天然石を切ったり削ったりする仕事にはなり手がなく、転職していく者も多い。幾つかの工場では人手不足のため半分機械が眠っている。そのため人件費は高騰するばかり。加えて中国の製造業者との競争もある。どこもかしこもビジネスは楽ではない。
 
グローバリズムのもとで世界はたゆみなく変貌している。新しい勢力が台頭しては覇権あらそいにしのぎを削っている。昨日の勝者は今日の敗者となり、すべては流転のうちにある。そのなかをぼくらは河を遡上する鮭さながらに泳いで泳いで泳ぎつづけていかなければならないということなのだろう。
 
スピリチュアルな世界と産業は停滞したらゼロ成長があるわけではなく、衰退しかないという点がよく似ている。
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2006年3月14日 編集
会社巡りをしていると気分はもう御徒町
ホテルのレセプションでパークサイドの部屋を注文して、たぶん去年7月に来たときと同じ部屋を与えられた。九龍公園が眼下に眺められ海峡越しに香港島が見える。眺めのいい部屋ではそれだけで気分が爽快になる。

公園では新緑が芽吹いている。しかし今日の香港は2日前の長沙と同じほど寒く、空は相変わらず曇っている。
 
タクシーでホンハムへ行って、急ぎ足で3つの取引先のショールームを巡ってきた。昼食でもいっしょに、の誘いを断ってマクドナルドで昼を過ごした。自分のライフスタイルというものにぼくはけっこう頑固なのだと思う。どこにいてもいつもと同じように暮らしたい。昼食にはひとつふたつのサンドイッチ、または菓子パンがあれば足りる。昼間の中華料理はいささか重すぎる。コーヒーとタバコへの依存症は止めようとしたことがない。 

そうしてホンハムのこっちのビルからあっちのビルへと歩いて、天然石のビーズや加工品を手にしていると気分はもう、御徒町を歩いているのと変わらない。東京にいてもとくに行きたいところがない、欲しいものもない、食べたいものもない、ここでも、まあ、同じような状況なのだろう。
 
夜には再びナイト・マーケットへ行ったけれど、馬王堆漢墓で見た玉璧(ぎょくへき)の意匠と同じデザインのヘキを見つけられなかった。
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2006年3月13日 編集
長沙から東莞、香港への長い道程(みちのり)
朝5時起床、6時チェックアウト。ホテルの外に出たらタクシーの屋根に3センチほど水っぽい雪が積もっていた! 暗黒色の空のもと黄色い街灯に照らされて牡丹雪が降っている。空港へ向かう道すがら、白々と明るみはじめる高速道路の路肩の植え込みにも雪が積もっている。ヘッドライトに照らされた雪片は千や万の羽虫となって押し寄せる。助手席に座って足首から忍びよる寒さにこごえつつも、ぼくはひたすら雪に見惚れ、2000年昔にも雪は降ったのだろうかと思っている。
 
深センに向かう飛行機は40分遅れて出発した。中国の飛行機は8割方遅れるのだとか。深センに着いたら電話する、そうすれば知人が迎えにくる手筈になっていた。深セン空港に着くと、彼はすでに待っていてくれた。そのまま車に乗せられて、1時間後に深センの隣町、東莞にある彼の工場に着く。
 
うちの勾玉や大珠、オベリスクの大部分はこの工場で作られる。3階建ての工場と4階建ての従業員宿舎が通路を挟んでセットで建てられていて、彼の中国での家は従業員宿舎の最上階にある。小さな中学校のグランドほどの空き地には水晶、タイガーズアイ、ソーダライトなどの原石が野積みされている。
 
従業員400人、品質管理と従業員管理はおおむね同じことで、これがここでの一番大変な仕事なんだ。と彼はいう。運動会・文化祭を開催したり、月毎に成績優秀者を表彰したりしてやる気を向上させる。まるでまるで全寮制の高校の校長のようだ。
 
工場のなかでは町の鉄工場さながらにモーターがうなり声をあげ、グラインダーで石を削る音が絶えない。防塵マスクをした男たちがそれぞれの旋盤器の前にかがみ込んで石をカットしている。来る日も来る日もそれがつづく。楽な仕事ではない。
 
彼は香港人、奥さんは中国人、東莞の家では奥さんの両親といっしょに暮らしている。家で昼食をご馳走になり、ひとしきり雑談したり、工場を見学したりして東莞の鉄道駅まで送ってもらう。ここから香港までは特急列車で1時間。香港のホテルに戻ったら午後6時を過ぎていた。
 
テレビでNHKのBSにチャンネルを合わせると、今朝の雪は中国でも数十年ぶりの出来事。四川省成都では20センチの積雪があったとニュースで言っていた。

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2006年3月12日 編集
「璧(ヘキ)」を巡るシンクロニシティ
外は雨、薄手のセーターにコートを着ていても寒いほど。加えて時折嵐のごとき強風が吹く。窓の外では、東京駅の半分はあると思えるほど広い敷地に幾棟もの建物が並ぶ古い工場が捨てられて雨に濡れている。隣接した野菜市場に人影はなく、棟から棟へと張り渡された電線が風に揺れている。
 
外出をあきらめてコーヒーをいれ、ひとり窓の外を眺めていると、気分は山の家にいるのとさほど変わらず、どこにいても同じという雰囲気になってくる。
 
香港のジェード・マーケットでは平面に穀紋が彫られて中央の穴が大きな「璧(へき)」ばかりが目についた。一度に同じデザインの製品が6個も手に入るのは稀なことであるのを不思議に思っていた。馬王堆漢墓では同じ意匠のヘキがシンボルの中心にあるのを見て、奇妙なまでの偶然の一致に心がどよめいている。
 
そのくせ出土品に玉器が少ないのも腑に落ちない。ここでは玉璧(ぎょくへき)の代わりに木製やカメの甲羅のヘキがある。それより3000年前、良渚遺跡であれほど大量に出土したヘキやその他の玉器はどこへいってしまったんだろう?
 
5000年前の長江流域の古代文明、良渚は洪水によって滅びた。彼らの文化は北に伝搬して南には伝わらなかったということなのだろうか。そうであるなら、日本列島へ稲作技術を携えて渡来した江南の民が玉器を持ってこなかったとしても不思議はない。
 
朝鮮半島から稲作が伝来するとともに弥生時代が始まったとする従来の学説は、いまではさほど確かなものではなくなっている。それとは別に、さらにはそれ以前に江南の民が黒潮にのって渡来した、おそらくは彼らが国津神の文化を育んだという説を、ぼくは大いに気に入っている。

なのになぜ日本列島からは中国式の玉器が出土しないかを疑問に思っていた。もともとなかったのであれば、この問題はすっきりと解決できる。
 
国津神たちも天孫族も等しく奈良盆地を目指したのは、そこに埋蔵された辰砂の鉱脈ゆえのことだったと考えるなら、記紀神話の国譲り伝説はいっそう現実味を帯びてくる。神話のなかの神武天皇は水田欲しさに奈良盆地に執着したのではあるまい。水田だけが目当てなら瀬戸内海の両沿岸にいくらでもあったことだろうし、中部地方や関東のほうがはるかに豊かであったことだろう。

馬王堆漢墓に戻れば、出土した老子の写本や性のハウツウ本にも興味深いものがある。内容がさっぱりわからないのだが、後者は『素女経』のような道教的タントリックなセックスによって「気」を操作する技法書であることだろう。
 
辛追の時代の人が老子をどう読んでいたのかは、ことのほか興味深い。彼らは超自我に目覚めるために老子を必要としていたのだろうか、それとも知識人かぶれの現代人のように処世訓としての老子であったのだろうか。老子が説く聖人=君主は自我を超越した人であることを彼らは知っていたのだろうか。

老子の時代、理想的な人間の在り方には2種類あった。聖人君主と呼ばれるような賢い王になることと、浮き世を離れ、スピリチュアルなリアリティのうちにあって自我を脱ぐことと。精神性から見た場合両者は等価だった。 

この状況はインドとて同じことで、それゆえにブッダは誕生時に世界を統治する王になるか、出家を極めるかのいずれかであると予言された。
 
良渚を見て長江古代文明と玉器を知ったように、ぼくは馬王堆漢墓を見て始めて「漢」という時代に触れた気がする。広州の南越漢王墓も相当に凄いし、香港に残る漢墓も興味深いものがある。しかしそれらはいまとなっては馬王堆の比ではないという気がしている。ここから「漢」の時代への旅が始まるのだと思うと、あまりの広がりにめくるめく思いがする。

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2006年3月12日 編集
馬王堆漢墓から鉄道駅へ観光はつづく
タクシーに乗る。ホテルのベルボーイが助手席に乗るよう勧めるのを不思議に思っていた。折に触れて観察していると長沙では客がひとりでいる場合、助手席に座るのが常識であるようだ。昨日ぼくを博物館へと運んだタクシー・ドライバーは、顔立ちは中国人でありながらも中国語を話さず、襟の立った黒いコートを着て押し黙る不気味な外人を後部座席に乗せて、さぞや背筋の寒い思いをしたことだろう。いろいろな土地のいろいろな習慣を奇妙に思う。
 
ホテルのビュフェでの朝食後にタクシーの助手席に座って馬王堆漢墓に向かう。土地の人は大概古代の遺跡に興味を持ちはしない。紙にはしっかりと簡体字で目的地を書いておいたのだが、案の定博物館へ連れていかれた。
 
違うんだ、オレが行きたいのはここなんだ、と昨夜印を付けておいた地図を出して日本語でいう。どうせ中国語を話せないのだから何語で言おうと同じこと。運転手は年の頃27、8歳、なんとなく気の合いそうな奴だった。そうして地図を頼りに捜しつつ尋ねた先は町の中心地からかなり離れた湖南省馬王堆病院という大きな病院の敷地内にあった。
 
こんなところでタクシーを手放したら中国に墜ちた異星人に等しい。腕時計を見せて、ここまでには戻ってくるから待つように、と日本語でいう。こういう話は何語であろうと通じるに決まっている。
 
石碑を横目に小高い丘への階段を登ると、そこには土砂を取り除かれた3号墓、宰相の戦死した息子の墓が保存されていた。建物でなら3階分ほどを逆ピラミッド型に採掘された墓穴の斜面の滑らかさに感嘆することひとしお。午前11時には今日の予定を終了、古代の神秘を両手で握った気分になって鉄道駅へと向かった。
 
駅には行くべき目的があるわけではない。雨の日にはたとえ見知らぬ土地にいても観光意欲は薄れてしまう。一眼レフを持ってきたのに撮影する気にもなれない。行きたいあてがないときにはとりあえず鉄道駅に行く。そうすれば旅先で旅する人々を見られる、それに駅周辺であれば、どこであろうと必ず土地っこの食堂がある。
 
この町では鉄道駅が町の中心にあって、ここから五一大道というメイン・ストリートが西に向かって伸びている。駅ではとりあえずランチ定食……肉や魚、野菜の5品の料理がスチロールパックに満載され、別に御飯がついて140円なり……をテイクアウトして、大通りを散歩した。
 
目抜き通りに並ぶホテルやレストラン、デパート、結婚式用写真スタジオ、そういったものを眺め眺め、ひとりでカツカツと歩いていると、土地の気がそこはかとなく身体に入ってくるようで気持ちいい。
 
午後1時にはホテルに戻る。バッグのなかではランチ定食の煮汁がビニール袋から漏れでて困ったことになっていた。充分におなかがすいてから食べた昼食は、青菜の油炒め、切り干し大根の煮付け、肉と魚のフライの味付け、などが入っていて、長沙風おふくろの味といった塩梅、ホテルの朝食よりは数倍おしかった。

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